株式会社日電テレコム
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Interview
代表取締役 宇野 契さん、技術・保全統括本部 統括本部長 大内 隆さん
今年も広島の夏の夜空を鮮やかに華やかに彩った恒例の「広島みなと夢花火大会」。7月、約45万人の観衆が集まった広島港近くの会場の片隅に、日電テレコム保全部の従業員はいた。と言っても、花火鑑賞のためではない。「大勢の人々が集まる会場でも、スマホが快適につながるように」と、仮設基地局の設置運営作業をしていたのだ。人と人とがしっかりとつながる。それを縁の下の力持ちで支えるのが、日電テレコムの人々。ガス水道電気、という旧来からの生活インフラに加えて、もはや現代社会にとって欠かせない「通信」を支えるのは、確かな技術力。その誇りを胸に働く人たちの話を聞いた。
国家機密にも携わる、電気通信工事の世界
大手通信・放送事業者や官公庁などを顧客に持ち、電気通信設備業務を幅広く手掛ける「日電テレコム」。携帯電話設備や放送設備をはじめとする通信設備、接地、雷害対策設備などにおいて、調査、設計、施工、保守といった多岐にわたる工事に日々取り組んでいる。
「一般の目から離れていてわかりにくい世界かもしれませんね。表にはあまり出ない工事なので」。宇野契社長は自社の業務内容をこう説明する。「電気通信の工事と保守。身近なところだと、携帯電話を使えるようにするための機械を様々な場所に付けたり、それを保守したりすることも主力事業の1つです」。テレビの送信所のアンテナやケーブルの設置や保守なども手がける。だが、表に言えるのは携帯やテレビの仕事くらいとか。「省庁関係の機密性の高い通信の仕事もしています。国家機密ですね」
そう熱く語る宇野社長が、全幅の信頼を置く社員がいる。それが、技術・保全統括本部統括本部長の大内隆さんだ。元銀行員、元カメラマン…転職組が多い同社の中で、彼もまた、他社から移籍してきた人。前職では、大手電機メーカーに勤務していた。

山口県内の実業高校出身。「都会すぎず田舎すぎず」の広島にきたのは、前職の就職のときだった。「東京に行った先輩もいたんですけど、私にはちょっと都会すぎかなって。大阪か福岡か広島かの選択肢で、ちょうどいいと思ったのが広島でした」
「時代は電気通信」。パソコン好きだったこともあって、実業高校の電子科に進んだ。知識を生かしつつ営業をやりたいと思って臨んだ就職活動だが、社会人のスタートは電機メーカーでの人事の仕事と決まった。「最初に思い描いていた仕事ではないけど、人と関わるのも実際におもしろくて」
会社がなくても生き抜いていけるか――
だが7年ほど勤めて会社を離れた。その理由は明確だ。定年退職を迎えた社員の退職手続き業務の中で、営業職を40年やってきたそのベテランはこう語った。「定年後も働きたいけど、会社の看板がなければ自分には特別なスキルは何もない」。その様子を目の前で見て、自分自身に問いかけた。「自分もこの人のようになるのだろうか」

そうはなりたくない。働ける間はずっと働きたい。そのために技術を身につけ、手に職を持ちたい。そう心に決め、転職サイトにあたった。人事で働くことはそれはそれでおもしろかった。組織作りの肝であるし、会社がどうやって回っているか、時間外労働やワークライフバランスの考え方についても学ぶことができた。ただ、高校時代に学んだ電気通信の知識を生かしてやはり営業もやりたいとは思っていた。初心に立ち返って現場で鍛え直したい――。電気、通信といったキーワードで探して何社か出てくる中、現場の仕事はなく管理だけをするような会社もあった。「その中で日電テレコムは、『技術が売り』と書いてあったんです。ここに行けば、あの社員の方みたいにはならないってイメージできたんですね。現場感が欲しかった。まずは手に職をつけるのが目標だったので」
入社後しばらくはもっぱら現場で経験を積んだ。ある頃、沖縄で防災行政無線のアンテナを取り付ける仕事をした。直径4メートルほどある大きなアンテナをチームで組み立て、吊り上げて、鉄塔の上につける。手がけた仕事が目に見える形で街に残る。そのことに大きなやりがいを感じた。「とてもうれしかったんで、後で妻を連れて見に行きました(笑)」

防災行政無線などの通信インフラは、災害時に命綱になるもの。こういった業務の性質上、会社としては、24時間年中無休365日稼働する。人々の暮らしの大切な部分を担っている誇りが支えだという。「有事の際、例えば能登の災害のときも弊社から人を出して対応している。今通信は、水や電気と並ぶ形でインフラとして最重要視されています」
不可欠なライフラインを守る。いくつも踏んできた災害現場のリアル
2024年1月1日。大地震に襲われた能登半島での通信復旧作業に、日電テレコムもすぐさま向かった。阪神淡路大震災、東日本大震災と、いくつもの激甚災害の現場を知っている宇野社長もこう語る。「被災した人たちも、災害対応をする人たちも、とにかく携帯で連絡を取りたい。ネットで今の状況を知りたい。だから正月だろうがなんだろうが私たちが駆けつける。当たり前に電波が届いて当たり前に電話ができる、その裏にはうちのような会社がある」
トラックで現地に向かい、仮設基地局を作る。電気が断絶した現場には仮設電源を持っていく。「基地局が残っていても、通信は電気がないと動かない。そして電気の復旧には時間かかる。そういう場所には発電機を持ち込んで、ガソリンを継ぎ足し継ぎ足して生かす」。あの携帯会社は繋がるのに、あそこは繋がらなかったという噂はすぐに広まり、契約数を左右する。携帯電話大手キャリア会社が求める基準はとても高い。

ずばり、技術力で生き残る
「同じ仕事をやらないのがうちのおもしろいところ。同じようなことをしているようで、扱っているものが毎回毎回違うんです。常に最先端の通信技術ということ」。大内さんの入社時はLTEや第4世代携帯電話(4G)と言われる通信規格の頃だったが、2020年頃に5Gに置き代わり、アンテナなどの機器がごそっと変わる。電波の飛び方は周波数によって全く異なり、おのずと携帯基地局を作る考え方も違う。
「今後はさらに、5Gから6Gへ、さらにそれらにAIが組み合わさっていく。夢がある仕事です」。大内さんは目を輝かせて言う。 5G、6Gとなると、自動運転や遠隔手術といった、命に関わる技術にも使われる。万が一電波が落ちると甚大な損害が発生する。「緊張感のある仕事でもあります」。そう話す宇野社長の表情は厳しい。
競合他社は規模が大きな会社ばかり。そんな中で日電テレコムのような中小企業がなぜ生き残ることができるのか。そう尋ねると、宇野社長は待ってましたとばかりに語り始めた。
「単純に技術力が高い。保守力なら日本一、二のクラスであることを自負しています」。45年になる会社の歴史の中で、歴代の機器・設備を全部見てきているからぱっと見て何が壊れているかが判断できる。そんな古参のエンジニアの存在が大きいという。「他社だと1回行って調べて、想定していた状況とは違ったとなると1回帰社して用意して、また行く。そんな出直しをしているとその日中には直らない。うちのベテランは、何を用意して現地に行けばいいか大体想像がつくからすぐ直せる。この違いは大きい」
クライアントである携帯電話大手キャリアは、保守を委託している全国の事業者(東京だけでも何十社とある)の成績をシビアに見ている。「スピード、安定率、先に言ったような『出直し』もカウントされる。KPIで全部数値化されている。デジタルツーカー、J-PHONE、vodafone、ソフトバンクと変遷する長い間のお取引があり今に至っていますが、実は単年契約という厳しい世界。『契約を10年にしていただけたら安くします』といっても通用しない」。そんな中で長期間取引を継続しているのだそうだ。
「壁がないのか」というくらいの風通しの良さが自慢
スピード感も求められる。小さな組織だからこその風通しの良さと意思決定の早さが日電テレコムの自慢だという。「『この建物って壁がないんですか?』ってレベルの風通しです(笑)。改革志向で既存の概念に縛られない社風。建設業界でも若者が多い会社であるのは、この社風だからだと感じます」と大内さんは胸を張る。前の会社は、一事業所に200人を超える人がいて、社長に会うことなどなかった。「部長までは通っても、その上でよくひっくり返る。今の会社はそういうことがない。社長がすぐそこにいるのもあるけど、すぐ声が届くから意思疎通がスピーディー。『予算これぐらいなんですけど』と伝えるとすぐ『明日やろう』みたいな」

「少数精鋭だからこそ効率良く、業務も標準化して進めていかなきゃいけない。全国規模の会社が名を連ねる競合他社の中に、うちみたいな中小が入っている。そこで幸いながら成果を出せているのは、技術力はもちろんなのですが小回りが利くからというのもある。お客さんの要望を一番早く吸い上げて一番早く実行できるのが力だと思っています」
その雰囲気は宇野社長が作り出しているものなのか。「あえて口では言っていないけど、そういう考え方を体現していますよね。社長自身が新入社員と一緒に現場に行って手を動かしていますから(笑)」
学生時代よりも勉強している?資格取得をコツコツ重ねながら――
通信技術の革新に合わせて、設備も保守も変化する。そのダイナミズムも、この仕事の一つの醍醐味だと大内さんは言う。当然ながら知識のアップデートへの努力は不可欠だ。「正直、学生の頃より会社入ってからの方が勉強しています」と苦笑いする大内さんが手にしたカードケースには、ありとあらゆる資格証がびっしりと入っていた。

第一級陸上無線技術士、一級電気通信工事施工管理技士、第一種電気工事士…。多岐にわたるスキルが求められる業務。取得した資格に応じて、月額の手当に加算されていく。つまり、意欲がある人がチャレンジを重ねることを、会社としてしっかり下支えしている。合格すれば資格取得にかかった費用は会社が負担をしてくれる。「不合格だったら取り返せないんですけど(笑)。意欲がある人は、資格を取ったらさらにその上を、と意欲的に勉強しています」
大内さんは現在、5日のうち3日を事務所、2日を現場で過ごす。様々なエンジニアが、それぞれの現場でうまく仕事ができるよう環境を整える。「私も現場に出ますが、すごい技術者っている。私はどちらかというと、その人がうまく働けるために図面を整理したり、お客さんや関係者と交渉したりするところにこの仕事のおもしろみを感じるというか、そっちの方が才能あるかもって(笑)」

完全な事務がいない職場。設計を書きつつ現場に行き、現場管理の担当者であっても必要があれば現場に行って、荷物を引っ張ったりする。管理もできて営業もできる、そんな人もいる。そういう機動力が、日電テレコムの「売り」だという。転職して15年目、自分の技術を磨くだけではなく、「チームとしての総合力の向上」に意識が向くようになった。
自分の武器で活躍できる
「社会インフラに必要不可欠な技術をもって貢献していく」。求人票に記された会社のミッションだ。求めるスキルはと聞くと、「現場で身体を動かす仕事なので、やはり健康でいることは重要ですね。能力や技術は現場で身につけていけますが健康管理は常日頃のことなので」と大内さん。対して、宇野社長はこう語る。「率先的に取り組むことを苦と思わない人。自分の武器が何か一つでもあればどんな人でも活躍できる」
現場で求められるスキルは実にさまざま。携帯の基地局はビルの上などにあるが、修理や保守に向かおうと思えば、ビルのオーナーに事前連絡して許可を得るアポ取りも必要だ。鍵の受け渡しも発生する信用ベースの仕事。「人と話すことが好きな人ならそんな場面で活躍できる。ビルのオーナーさんからは『この担当者で』と指名でお願いされることもある。オーナーさんのおしゃべりに付き合ってなかなか帰れない、なんてこともあったりなかったり(笑)」。技術力もさることながら、コミュニケーション能力や人間性も問われる。逆に言えば、それぞれの得意を生かす余地がいくらでもある。「顧客が困った場面で真っ先に顔を思い出して相談をしようと思う人、そんな人財を一人でも多く育て続けたい」

8割が未経験からスタート、大局を見据えた人材育成
「転職者にとって働きやすい会社。全従業員のうち、8割が未経験から。何も知らなくてもスタートできます」。宇野社長は言う。まったくの他業種から、40歳を過ぎて入った人もいるという。「自分の存在価値とかやりがいも実感しやすいのがうちの仕事です」
一方「優秀な人材を地域に根づかせる必要がある」と、経営者としての理念・哲学を表現する宇野社長。「次世代のリーダーを率先して育成していく事が大事だと思っています。行政も企業でも受入環境の整備、充実した生活環境も含めて提供できる支援制度など、投資が必要」。人材育成に対する宇野社長の問題意識は、さらに大局的だ。「ここに限らず、日本国内にとどめないといけないんですけどね。そこは育てる側、使う側の力量です。うまくやれば、おのずと広島にとどまる人が増えるとは思っています」
自身がそのために重視しているのは、社員とのコミュニケーションだという。「うちの組織の10年後、20年後を頭に思い描いて、コミュニケーションを重視してやっている社員は結構います。見ていても、結局そういう人がやがて組織の上に立ってくるんでね」。OJTではなくOFF-JT。それが、多角的に人材育成をし、人材評価に繋げようとする宇野社長が重視するポイントだ。
負けず嫌い社長の、品川駅で泣いた過去
「『日電テレコム』って名前が大きくないですか。私が付けたんじゃないですけどね」。社長になるまでの経緯を語り出した宇野社長は、いたずらな笑みを浮かべながらそう言った。「社員が5千人くらいいそうな感じでしょ(笑)。なるべく規模は小さくて名前は大きそうな会社を探していたんです」。10代の頃から「いつか社長業をやろう」と思っていたという宇野社長。早く経営を学び、経営に参加したい。そう思い、10代で社会に出る際になるべく社員が少ないところを選んだ。「初日から当時の社長に言っていましたからね。『いずれ私がやります』って」
原点は少年時代。「母子家庭で貧乏で、お金がないことで理不尽な仕打ちに遭いました。見返してやりたいっていう気持ちが強かったわけではないけど、そういうのがないようになりたくて」。当時まだ社員数8人ぐらいだった日電テレコムに中途入社したのは20歳のとき。45歳ごろには社長になると決め、本当にそれを実現し、11年経って今56歳。「今の所思い通りにしかいってないんです」。さらりと語る宇野社長だが、若い頃は苦労を重ねた。
「仕事はしんどかったですよ。 体力もいるし頭もいるし、とにかく休みがなかった。自分の限界を知りたくて、わざと休まず月に200時間ぐらい残業していました。自分で自分を試したかった。もちろん、人に強要するものではないですし、あ、今のうちの話ではないですよ」。年俸制を導入したり、ワークライフバランスの拡充に向けて試行錯誤を繰り返してきた宇野社長は、今はもっぱら休日が適正に消化されているかどうかに対して目を光らせているとか。
周りより10年先を行きたい。30歳の人がやっていることを20歳でやりたい。「負けず嫌いなんでしょうね。人の倍やらないと追いつけないと考えていました」。言われる仕事はなんでもやった。「振り返ったらよく耐えてたなって。しんどかった現場はありますよ。まだ若い時でしたけど東京出張の仕事で、品川駅で泣いたこともあるし」

困難を乗り越えたら、自分はどうなるのか?
大手メーカーのネットワークシステムを同社が受注した。「どう考えてバリバリのベテランがやる仕事を、20歳そこらの人間にブン投げられてしまいましてね」。東京のとあるソフトウェア会社の事業所に行くことを命ぜられた。「先方は『わかっている人が来る』と思っているから、ハナから訳のわからない専門用語で捲し立てる。でもすぐ『おいおい話が違うじゃないか』となる。こっちはこっちで『なんで俺はこんな窮地に立たされとるんだ?』って」
今晩泊まる場所もわからない。当時は携帯もないから、宿をとるにも電話帳で調べて電話しないといけない。途方に暮れたことを昨日のように思い出す。世界各国の事業所をネットワークで繋いでデータのやり取りをする。その根幹を作るプロジェクト。「でもちゃんとやりきりました。それが最初の苦難だったかも」
小笠原諸島に行き、3、4カ月休みなしで働いたことも。数々の修羅場を潜り抜けることができた理由はなにか。「目の前に困難があったら、そこを乗り越えた自分しか見ない。これを乗り越えたら自分はどうなるんだろうって。やり遂げた自分はきっと精神的にも一回り大きくなる、とイメージするんです」。何もないところで生き抜くストレス耐性もまた、幼い頃の体験が生きる。「うちにはゲームもなかった。遊具も何もない公園で草を拾って遊んでいました」
社長の仕事は、社員が各々の得意分野で自信を持って生きていけるようにすること――
そして気づけば社長になり、入社当時8人だった社員は今では50人近くに。「たまたま見つけたこの会社に就職したのが、僕の一番のターニングポイントかもしれないですね」。まったく未知の世界に飛び込んだが、常に進歩を続ける通信という業界だからこそやってこれた。「ポケットベルの工事から入ってPHS、携帯電話になってスマートフォン」。その変化のうねりの真っ只中で会社を成長させることで、自分も成長できる、その醍醐味を今、社長も社員たちも実感している。
だが「急成長」は目指していない。安定的で着実な経営こそが最重要。それが宇野社長の考えだ。そのために社長としてやるべきことをこう語る。「社員個人が自信を持って生きて行くための、武器や力を備える支援をしたい。個々の得意な分野で活躍してもらい、輝ける場所を見つけてもらいたい」。集合体としての会社の総合力は、その上にあるものだと信じて。
