株式会社 永山本家酒造場
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Interview
代表取締役 永山貴博さん、酒米栽培責任者 村木亮太さん、クラフトビール醸造長 山本秀憲さん
山口県宇部市中部、秋吉台から瀬戸内海に注ぐ厚東川沿いに広がる二俣瀬地区は、かつてあった中州で流れが二つに分かれていたことから、その名がついたと言い伝えられる。人口約1000人のこの集落の中心にある永山本家酒造場は、国内外の酒好きを唸らせる銘酒「貴」の醸造元。従業員数わずか9人ながら、米づくりから商品発送までこの地で一貫して手掛けている。1888(明治21)年創業の酒蔵を5代目として継いだ蔵元杜氏の永山貴博さん(50)をはじめ、少数精鋭の職人たちは、それぞれに人生の岐路を重ねながら、仕事の哲学に磨きをかけてきた。分かれ目で何を選び、人生をどう切り拓いてきたのか。日本酒と中山間地域の可能性も探りながら、仕事への思いを聞いた。

何もせず、田舎のおじさんになっていくのだろうか――永山貴博社長と「貴」
「冬の間はもろみとか酵母とか人間じゃないものと向き合ってきた。ようやく春になって人に会える」。3月末、本社敷地内で開く恒例の「酒蔵びらき」会場の一角で、貴博さんが目を細めた。桜の下、この日売り出される「蔵びらき限定酒」には長蛇の列ができた。出店やキッチンカーも大入りだ。「これだけの方が今日を待ってくださっているって、うれしいですよね」
永山本家の本社事務所は、国登録有形文化財に指定されている1928(昭和3)年築の洋風木造建築。旧二俣瀬村が1947(昭和22)年に宇部市に編入されるまで村役場庁舎だったが、永山本家が1965(昭和40)年に買い取った。村役場だった1階は事務所、村議会の議場があった2階はカフェに生まれ変わった。

この建物より長い歴史をこの地で刻んできた会社の社長に、貴博さんが就任したのは2013年、38歳のころだ。日本酒造りも家業を継ぐことも、最初から前向きな決断ではなかった。
二俣瀬で生まれ育ち「田舎でそのまま何もしないで生き、田舎の一おじさんになっていくのか」と悶々としていた18歳のとき、カナダ留学へ。2年で帰国し、漫然と家業の手伝いをしていた。冬は酒造りの補助をしたり、当時アサヒビールの特約店をしていたため、夏はトラックに積んだビールケースを酒店に降ろしたり。誰でもできる単純作業だった。
そんなころ、会社に1通のファクスが届いた。1996(平成8)年、酒造組合からの酒類醸造講習の案内だった。主催は前年に東京・滝野川から広島県東広島市へ移転したばかりの国税庁醸造研究所(現・独立行政法人酒類総合研究所)だ。
「何をやっているかわからないまま蔵で手伝うよりは、研修でも受けたら何か変わるんじゃないか、浪人生的な形で家にいるよりはエネルギーをどっかに持っていこう、というような気持ちで。実は『酒造りを本気で学びたい』という前のめりな気持ちがあったわけではないんです」

「蔵元杜氏」の時代の入り口で受けた刺激
しかし今思えば、その伝統ある酒類醸造講習の90期生25人は特に豪華な顔ぶれだった。まだ20代だった天狗舞(石川県)の車多一成氏、30代だった日高見(宮城県)の平井孝浩氏と喜久酔(静岡県)の青島孝氏…。「業界の将来を期待された若手が揃っていたんです」。広島の酒商山田といった地酒専門店が、営業で立ち寄ったり、逆に受講生も週末に店に行ったりという中で人脈が広がった。永山本家の「男山」のような酒と、勢いのある酒蔵の酒がどう違うのか。今後、アルコール添加酒と純米酒はどっちの流れになるのか。常温保管と冷蔵保管のどちらがトレンドなのか——。飲む人の最前線で売る人の話を聞く中で、暗闇に一筋の光が差し込んだような気持ちになった。やり方次第で、飲んでもらえる酒はつくれるのではないか、と。
外部の杜氏を雇うのが当たり前だった日本酒業界は1990年代以降、経営者自身が杜氏として酒造りのイニシアチブを取っていく時代に変わりつつあった。話題は、高木酒造(山形県)の十五代目、高木顕統氏(2023年に辰五郎を襲名)が1994年につくった「十四代」で持ちきり。喜久酔の青島氏は農業と酒造りの取り組みを始めていた。「青島さんとの出会いが私には大きかった。研究所を出たときには、こういうやり方でやれば、雑誌「dancyu」に載るような専門店で売ってもらえるかもしれない、そんな道が見えてきたんです」

「できるわけがない」と思っていた自身が変わった瞬間と、「貴」の誕生
受講前、両親の姿に希望を見出せなかった。Jリーグが華々しく誕生し、テレビではトレンディドラマが真っ盛り。一方の酒蔵は華やかさの真逆。父より年上の職人が休みなく働き、それを支える母は蔵人たちの朝昼晩の賄いに追われる日々。小学校のころ、ドラマ『夏子の酒』が放送されたが、良い酒を作れば認められるというストーリーは子どもの目にも虚構にしか見えなかった。留学から帰国すると、IBMがeコマースの宣伝で「日本酒を海外で売る」と喧伝していたが「できるわけない」と冷ややかに見ていた。「日本酒では食っていけない。ビールを売って会社を維持している父も、自分の仕事に未来があるとは思ってなかったのでは」。貴博さんは振り返る。「だから講習を終えて酒に前向きになった僕を見て、父は喜んだと思いますよ」
酒造りを始めたころは、コンセプトが未熟だったが、酒店のアドバイスに恵まれた。「男山」の名は全国で十数の蔵の酒に使われており、別のラベルを探していると、こう言われた。「あなたのつくりたいブランドを一文字で大きく表現してはどうか」。自分の名前から一文字を取り「貴」と書き、和紙にプリンターで印刷したのが「貴」の誕生だった。

戦略より「ストーリー」。米作りという究極の非効率
酒類総合研究所には、ワインが専門の研究者がおり、ブドウの生産から発送まで一貫して手掛ける「ドメーヌ」の考え方を教えてくれた。講習から戻り、地元の酒店で自然派ワインに出会い、さらに興味が湧いた。2007年、日本酒と自然派ワインを扱う福岡のとどろき酒店の社員から、フランスのワイナリー訪問に誘われた。日本酒にどうにか、そのころ徐々に入りつつあった自然派ワインの考え方を取り入れられないか—— 。感度のいい酒店が関心を示すワインのトレンドは日本酒にも必ず後に来る。いずれ世界のマーケットを視野に入れるなら、グローバルルールに合わせていかないと取り残されると考えた。「例えばWBCで、ピッチクロックやピッチコムの話がでた。日本もあれらを早く導入すべきでは、みたいなのと同じで」
ブルゴーニュで聞いた話は刺激的だった。激しい雹に見舞われたとき、化学肥料を使っている農家は被害を免れたが、使っていないナチュラルワインの農家は大きな影響を受けたという。「でも、彼らはそれすらも畑から始まるストーリーと捉えている。ドメーヌの考え方なんだと。飲んでみてその連続性がある」

ドメーヌの考え方を日本の酒造りに取り入れたい。その結果、自分たちの酒造りのための米を自分たちでつくることにした。ワインでいうところのブドウが、日本酒ならば米、だからだ。だが、それは同時に究極の非効率でもある。全国に1200ほどある酒蔵のうち、本格的に米づくりに取り組んでいる蔵は30ほど。つまりたったの2.5%である。それはひとえに大変だからだ。日本酒市場は年々縮小し、ただでさえ余裕がない中に「わざわざ」米までつくるとは。
「競争してナンバーワンになることこそが偉いというアメリカの考え方と、ヨーロッパ的な共生の中でそれぞれの良さを認めて価値を作っていく考え方。私に合うのはヨーロッパ型だなと。アメリカ型は最終的に勝つ人が富を奪っていく。田舎で生まれ育った私は、ヨーロッパ型の考え方に共感を覚える」。その土地にある、その土地ならではのストーリー。与えられた土地を素直にポジティブに受け入れ、物語を自分で紡いでいけたら——。「今AIが発達しているけれど、そういうのに距離を置きたい人もそれなりにいる。そういう人たちとともにやっていくのが、地方のビジネス、地方の蔵のあり方かなって」
二俣瀬の田んぼの風景を、少年時代は退屈だと思っていた。だが、考えが変わると違って見えるようになった。ここは、自分たちのかけがえのない「テロワール」(土地)なのだ、と。
僕が見たヨーロッパは父には見えない
2007(平成19)年に会社を法人化。偶然行ったヨーロッパでやるべきことがはっきりした一方で、自分が見てきたことは、父には見えない。やりたいビジョンは実践して見せていくしかない。経営を継ぐ覚悟を決めたのはこのころだった。

20代で学び、30代で貴を作り、40代で積み上げてきた。そして、50代は——。「他のことは今更できないけど、たくさんの方に貴を売っていただいたから今がある。 私なりにやってきたことにやっぱりメッセージ性があると思ってやっています」
本社近くの母校、二俣瀬小は通っていたころ190人ほどの児童がいた。学年には30人いたが、今年の4月の入学予定者はわずか1名と知り、危機感を覚えた。「二俣瀬っ子ここから会」を作って地域がチームになって、特認校制度のPRに取り組んだ。その結果、新たに3人の子どもが入学することに。地域の課題解決にはまだ全然至っておらず、「偉そうなことを言う気はないけど、かっこいい田舎暮らしをする一社長になれれば」と願う。
「車で福岡に行こうと思ったら1時間3、40分、広島でも2時間かかるかかからないか。車で30分の宇部空港から、さらに羽田までは飛行機で1時間半。宇部の中心部にも30分。つまり都市部へのアクセスが実はとてもいい場所。にもかかわらず全校生徒が20人しかいない自然にあふれた田舎」。すべてが適度、それが二俣瀬の魅力という。

ここで生まれ育って出たことがない人は田舎には何もないと言う。だが、自分は外に出たし、妻は東京から移住した。ここで生き方を構築すれば、都会は逆に情報が多すぎると感じる。「人ってあまりに情報過多だと疲れる。だから適度な田舎がいい。発想一つだと思う」 。小学校の児童が減り、もう少しで学校がなくなるかもしれない。そのとき初めて学校について考える。田舎は社会のありようを考える機会をくれている。酒の出荷は3分の1が関東圏、10分の1は海外。適度に外とビジネスでつながっているから、ポストコロナの働き方が田舎生活の一つのポイントだと感じる。
酒造りと思いきや米づくり。でも魅せられた――酒米栽培責任者 村木亮太さんに聞く
2019年に農業法人を設立し、本社周辺の3カ所に計4ヘクタールの圃場を持ち、山田錦や雄町といった酒米をつくる。25年前に2880キロだった米の生産量は、15000キロにまで増加。看板の純米大吟醸「ドメーヌ貴」は、ここで収穫した山田錦を100%使っている。
米づくりという心臓部を任されているのは、醸造部酒米栽培責任者の村木亮太さん(30)だ。元は県内の印刷会社で営業担当。幼い頃から自然が好きで、大学で生命工学を専攻して微生物について学んでおり、興味を生かせる仕事をしたいと考えて2018年に転職した。「日本酒造りの番組を見て、頑固な職人って不思議だけどかっこいいなって」。自分が自分らしく働ける環境に身を置きたかった。酒造会社に絞って転職活動をし、県内の別の酒造会社から誘いがあったが、何か違った。「オートメーションで作業が細分化されていて一つの作業を一人でやり続ける。そんな感じではなく、最初から最後まで一貫して携わるものづくりがしたかった」

ハローワークの求人には「職種:清酒製造」とあったから、自分が米づくりをするとは驚きだった。幼いころから田んぼを眺めたり横で遊んだりしてきたため、抵抗はなかったが、「まさか全部一人でやることになるとは」と苦笑いする。
ウェットな人間関係から得られること
自然を相手にする農作業は、試練の連続だ。「どれだけ人間が手を入れても、自然にはかなわない」。穂がちょうど実ったころに、イノシシにやられた年もあった。「予想できないことが起こるのも、自然を相手にする仕事の楽しさかな」
上手に発酵をコントロールして導き、最後に自分たちの納得いくものができて、飲んだ人に美味しいと言ってもらえるときに仕事のやりがいを感じる。「やっぱり原料って大事。同じ場所でとれた米でも、年によって夏暑い期間が長かったり、雨が少なかったりすると、でんぷん量や硬さが変わる。麹や酵母などの微生物の力を借りて発酵させるとき、米の溶けにくさや臭いも変わってくる。毎年作り方を微妙に変えていかないと、安定した品質が再現できないのが難しくもあり、おもしろくもある」

農業担当は特に、地域と交流する機会が多い。近所の人たちが農業の先生をかって出てくれて、機械はこれ使え、水がないけぇやれ、とお節介をしてくれる。田植え前に地域全員で集まって溝の掃除をするが、入社したころは元気だったおじいさんたちが、腰が悪くなったり、亡くなったりしていく。「仕事とはいえ地域の人と交流する中で、いろんな人柄や状況がわかってきて、ここが第二の故郷になった。この人たちにできることがあれば力になりたいという思いがある。会社を架け橋に地域の人たちと交流する、みたいな感じですね」
田舎の人間関係は、踏み込みすぎず突き放しすぎずの絶妙な距離感が大事。仕事の流れや体の動かし方、抜きどころがわかってくると、役割とか作業の意味あいという「点」がちょっとずつ繋がっていってものづくりの楽しさがわかってきた。
自分の土地で作った原料で世界に発信するというプライドとこだわりが強い貴博社長を、チーム全体で支える。「体が言うことを聞いて仕事ができる限りは社長の支えになりたい。 社長に恩を感じているから、社長のやりたいビジョンに向けて、手助けができたら」

酒蔵がなぜ、クラフトビールをつくるのか――クラフトビール醸造長 山本秀憲さんに聞く
2024年、永山本家はクラフトビール事業に参入した。社運をかけた挑戦に立ち上げから関わったのが、醸造長を任された山本秀憲さん(37)だ。レシピ決定、原料仕入れ、醸造、パッケージと全工程を担う。村木さん同様、転職組でまもなくまる8年となる。

社長がクラフトビールに興味があると社内で聞き、実際にやるとなったときに手を挙げた。日本酒とビール、二つの知識をものにできればプラスになると思った。初の社外イベントで飲んだ人が立ち止まって「めっちゃ美味しい」と言ってくれた瞬間、報われた気がした。
一番こだわるのは、水。「ビールも日本酒も原料のほとんどが水。そのビールに合った水質調整をすると教科書通りに美味しくはなるけど、うちはそれはやらない。ここの土地のものを生かしたいから、くみ上げた地下水をそのまま使う。そこは絶対に変えない」
実は山本さん、大学院で「水」を研究し、新卒で上下水道機器メーカーに入社した「水のプロ」。幼いころから理系を進める父に「水は人には絶対必要だから何があっても水だけはなくならないし食いっぱぐれない」と言われた。タイにも留学し、日本の技術を活かして新興国で安全な水を作る研究に没頭した。「水で生きていく」と決めて就職したが、配属先は下水の部署だった。上水の希望を伝え続けても叶わぬまま、自分でなくてもできる仕事を続けるのが苦しくなり、5年で転職を決意。「30のときに思っていることを大事にする」と決めていた。
「犬みたいな嗅覚だな」
妻の実家が宇部だったこともあり、山口県に絞って転職活動を開始。それまで心血を注いだ水にはこだわらず、日本文化に関わる職を探したのは、日本の伝統を守る職人のような働き方に憧れたからだった。転職サイトで最初に見つけたのが酒蔵。2013年に和食がユネスコ無形文化遺産に登録されて以来、日本酒もクローズアップされており、妻の影響で日本酒自体も好きだった。

永山本家で働き始めてから驚いたことがある。それは、自分の「嗅覚」を評価されること。新人のとき利き酒大会で良い成績を修めると「お前は鼻がいい」と貴博社長に言われた。振り返れば、昔から何でも臭いを嗅ぐ癖があった。大学時代は大気汚染の講義で臭気について学んでいると、教授から「犬みたいな嗅覚だな」と言われた。「ここに来て初めて、これってすごいことなんだって」。今後は香りの言語化力を鍛えたいという。
日本酒造りに関わるようになり、期せずして再び「水」に戻ってきた。「二俣瀬の硬い水は、マグネシウムやカルシウムといったミネラルが豊富で、ビール酵母にとってはとてもいい」。辛口の『貴』を生み出す水が、ドライな飲み口のビールをつくる。
現在の担当業務で、明確な目標がある。それは、ビールで賞を取ること。「ビールは日本ではなく外国の文化。二俣瀬の水を使い、日本酒の技術を取り入れたビールも作って、ジャパニーズスタイルだけど世界大会で認められるものを作って金賞を取りたい」

それぞれの、田舎暮らしの「THE ANSWER」とは
水と同じぐらい大事にしているのが「酒蔵らしさ」という。「日本酒の技法でビールをつくるのは理論上できるけど他にやっているところはない。手間をかければビールも期待に応えるから、なぜ酒蔵がビールをやるのかを答えにして、飲めばわかってもらえるものをつくるのが最終目標」
そんな思いを込めたフラッグシップラベルの名は「THE ANSWER」。ブランド名「Dr. Kong」は、名前の「博」と「ゴリさん」と慕われる社長の風貌にちなんでいる。
福岡に生まれ、山口で学び、埼玉で働き、山口に戻った。故郷を含めて土地に思い入れを感じたことはなかったが、今は宇部に「地元」を感じる。ここで授かった子は6歳になった。人口減に直面する地域で、この会社が人を呼び込む力になればと願いながら今日も仕事に向かう。

「結局田舎暮らしって、覚悟を決めてそれに根ざしたストーリーをつくっていくこと」。貴博さんは言う。「みな課題は違うけど、自分で考えて組み立てていくのは一緒。そのとき出た課題を一生懸命クリアしているにすぎないけど、ビジョンに向かってかっこよくありたい。実際は、つまずいては『こういう転び方するんだ』みたいな中で、答えを出しているんですけど」
